LOGINふぅ、と息を吐いた彼は、また体の向きを変えて天井を仰いだ。まだ私の顔を見るのが辛いのか、腕で半分顔を隠している。
「わかった……」 ガラガラの声は、しゃべらせるのがかわいそうになってくる。風邪かもしれない。薬を探して、見つからなかったら春日さんに聞いてみよう。 「すぐ戻りますね」 まずはスープと温かいお茶を持ってこようと、ベッドを離れる私を、「待ってくれ」と引き止めた。 「では……別の頼みだ。こういう時に効くドリンクがあるから、作ってくれないか。レシピは私の書斎の引出しに入っている。上から三番目だ。……これで、鍵が開くから」 貴重品入れから取り出したキーホルダーの中から、一番小さな鍵を示す。 「わかりました」 頼ってくれたのが嬉しくて、廊下を隔てて隣り合っている書斎へと急いだ。上から三番目の引出しを開けると、ノートが入っていた。ほかにレシピらしきものはないから、これに違いない。開くと、ほとんどのページに新聞の切抜きが貼ってあった。内容は、様々なお料理の作り方。
彼は慣れていた。この部屋で、私を抱くことに。二人の体重をしっかりと支える大きなベッド……普段一人で使っている時は、寂しくなるくらい大きい。そうだ……私は毎晩のようにここで晧司さんに抱かれていた……官能の波の芯とも言うべき部分に、うっすらと真実が見え始める。「もっと足を開いて……ん? どうした?」「恥ずかしい……」「それが、いいんだろう? こんなにして……」「アンッ……」 優しい意地悪に、甘く抗い引きずられていく。翻弄されることに悦びを覚えていく。心の防御がポロポロと剥がれ落ち、私の内面まで丸裸にされる……もう少し……もう少しだけ先を知りたいと口に出すことはできなくて、体で伝える……。足を絡め、腰をくねらせ、唇をねだる。「リン……かわいい、リン……」 言えないことも、彼は察して受け止めてくれる。心と体の会話が、完全に成り立っている。ああ、この部屋は晧司さんと私が愛し合うための場所なんだ……この体は彼にこんなにも応えている……。「晧司さん……それ、なくても、いいから……」「リン……」 薄い膜を隔てずに私の中で達してほしい……懇願する私を、彼は「いい子だから、今夜は我慢だ」となだめた。「我慢なんていや。お願い……」 何かに憑かれたように、私は願った。その行為が何をもたらすかわからないような子供でもないというのに。「たまらないな……」「あっ……あ、あぁっ」 彼は願いを聞き入れてはくれず、その代わりとでも言うように、ベッドでも何度も体位を変えて楽しませてくれた。私の羞恥心と欲望が、美しいと言いたくなるほどの完璧なバランスで剥き出しにされていく。彼が私をコントロールしているわけではなく、私自身が望み、限りなく彼を欲した。「もっと、見て……全部見て、晧司さん……」「見ているとも……綺麗だ、リン……」「うれ、し……はぁ、あん、そこ……もっと……」「かわいいよ、リン……すごいな、君のナカは……イき続けている……」「あぁぁっ、ンッ、気持ちいいっ……」 絶え間なく押し寄せる波。達して、またすぐに絶頂に追い込まれ、さらなる快楽の淵へと引きずり込まれていく。 晧司さん……晧司さん……私をあなただけのものにして……。
直接触りたいのに……直接触ってほしいのに、許してもらえない。せめてキスをしてくれたらいいのに、彼はそれもしない。服の上からなぞられる感触、世界の中に彼しか感じられないような圧倒的な存在感……。 頭の中を熱がめぐる。ここがベッドの上ではないことさえ忘れてしまう。どこであろうとかまわない、私をもっと欲しがって――と叫んでしまいそう。 晧司さんの手が、私の腰から下の丸みを撫でた。「あっ……」 彼がほんの少し力をこめただけで、私の体はガクガクと震えた。「おっと」 しゃがみこんでしまいそうになったのを、抱き止められる。こういうことが前にもあったのかどうかわからないけど、弛緩した私の体を抱えて彼は満足そう。「こっちは狭い……君の寝室へ行こうか」 頷くことしかできなかった。 前の晩以上に激しかった。彼も、私も。 部屋に入るなり、閉まった扉に背を押し付けられ、立ったままで着衣でつながった。いつ用意したのか、晧司さんはガウンのポケットに避妊具を忍ばせていた。自分の部屋を出てくる前から、私の情欲を見抜いていたのかもしれない……。「あんっ、あ、あっ……」 始まったばかりだというのに、獣のように声をあげてしまう。ベッドへ行くまでの間に体位を変えて何度も達した。息をつく間もなく、容赦なく攻められる。朝の憔悴ぶりが嘘のように、彼は回復していた。その凄まじい回復力に心の底ではホッとし、どこか恐ろしい気持ちもあり、焦点が定まらないまま私自身、彼にのめりこんでいく。 ようやくベッドにたどり着いた時には、二人とも汗びっしょり。床の上には、ガウンとワンピースと私の下着が落ちていた。
彼はバスローブからガウンに着替えていた。お昼過ぎに着ていたものよりも、体のラインがはっきりと出るタイプ。色は黒で、彼の男性的な部分を一層引き立てている。 飲み物を用意すると言ったのにそれをせず、彼の部屋の前で壁にもたれて欲を感じていたことを、ごまかす暇はなかった。私は、服の上から自分の胸を触ろうとしていたのだから……。クリーム色のワンピースは雲のようにふわふわと軽く、小さな動きでも大きく揺れる。 ガウンの下に、彼は何も着ていないように見える。全身から匂い立つような色気を、隠すのではなく強調するために、そのためだけにガウンを纏っている……そう思える。少しでも動けば露わになりそうな胸元から、目を離すことができない。ゆっくりと浮かべた笑みは、昨夜以上の嵐の訪れを予感させる。「どうしたのかな? リン」「え……」「続きを」 腕を組んで、今出てきた扉に背を預けた晧司さん。彼の意図するところがわからない。いいえ、わかってしまうのが、怖い……。「怖がることはない。ここにいるのは君と私だけだ。……さあ、見せてごらん」 彼の言葉を、頭よりも早く心と体が理解した。自分でも驚いたことに、私は彼に見せつけながら自らを官能の海へと誘い始めた。「はぁ……ん……」 全身が感じやすくなっている。早く触りたくて、恥ずかしいけれど服をずらそうとすると、「まだだ。我慢しなさい」と制止される。もどかしさも興奮の材料となり、熱が高まっていく。見られながら自分を慰めることに、戸惑いつつも悦びを感じて止まらない。焦らされれば焦らされるだけ、欲しくなる……今日、私に対して遠慮がちにしていたのも、プレイの一環だったのかと勘繰ってしまいそうになる……。「今夜は休ませてあげたかった……そのつもりでいたんだが、これでは難しいな」「あっ……」 壁と彼との間に挟まれ、体が密着した。彼が本能的に私を欲しがっていることが、押し当てられた部分から伝わってくる。
お風呂上りに何か飲み物を用意しようと、キッチンに足を向けた。カチャリと音がして、浴室の扉が開いた。「……やあ」 バスローブに身を包んだ晧司さん。髪が濡れていて、胸元にはまだ水滴が見える。漂うシャンプーの香りに誘われそうになる。 夕方から夜へと移っていく時間帯。昨日あそこまでした関係なら、私がこのまま縋りついてもおかしくはない。そうすることを一瞬ためらったのは、心の準備ができていなかったせい? 彼が具合が悪くて寝ているなら、治るまで結論を伸ばせる……無意識に、そう考えて安心していたかもしれない。「あれから、頭痛は?」「大丈夫……。晧司さんこそ、気分は?」「強い薬を飲んだから眠気はあるが、症状はもう随分といいんだよ。優秀な看護師さんのおかげだな」 確かに、お昼にはガラガラだった声も、ほとんどいつも通り。まだ数時間しか経っていないのに。「よかった。いい子で寝てましたからね。今、何か飲み物を。お部屋に持っていきます」「このまま起きてみるよ。部屋に戻って着替えはするが、このあとしばらくリビングで過ごすつもりだ」「わかりました」 平静を装った会話。彼の寝室は廊下を挟んですぐ。目で追い、今日何度か出入りした扉の向こうへと、いったん姿が隠れるのを見守った。 物足りない思い。彼の状態を考えもせず、昨夜のように奪ってほしいと欲望が渦を巻く。一夜で植え付けられたにしては、強烈。昨夜思い知らされた執着は、私が長い間に慣らされたものに違いない。彼は私が愉悦を覚える場所を知っていた。私も、彼に応えるすべを知っていた。 彼が元気になってきたとわかった途端、体内の獣が目を覚ます。ここは自分の部屋ではなく廊下なのに、どこにいるかなんて関係なく、彼に触れてほしくなる。昨夜の行為を思い出してしまう。ううん、思い出そうとしてしまう。事細かに。それより前のことは、私の頭が覚えていなくても、心と体が覚えている……。 昨夜、欲を爆発させたのは、晧司さんだけではない。私も、彼を貪った。一緒にいては危険なのは、私ではなく彼の方と言ってもいいくらいに。 もし……あの指輪の人がほかに誰か存在して、それでも私と晧司さんが愛欲でつながって離れられないのだとしたら? 私は、そういう関係を許容する人間だったのだろうか。誰とどんな関係性を築いていようと、私だけを見て、私に溺れて……そんな要求をす
後ろ姿が見えなくなるまで、見送った。夕李は、もう振り返らなかった。 彼は、「すず」と言いかけて「リン」と言い直したようだった。あれは、自分の言葉を、晧司さんの言葉に置き換えていたのではないかしら? 影野夕李。彼のことを、晧司さんも、七華さんも、多分春日さんも、以前から知っていた様子はない。夕李が私とどこかで親しくしていたのなら、初対面のように現れたのはなぜ?「あ……」 開けたままにしておいた玄関を入りかけて、ハッとした。 夕李は、私が記憶喪失だということを知っていて、今の私の前に現れた、ということになる。何の目的で? ううん、それよりもまず、私が記憶喪失であることをどこで知ったの? おそるおそる、後ろを向いてみた。 誰もいない。 夕方の衣を纏い始めた山が、風とダンスをしているだけだった。 少しの間、私は立ち尽くしていた。 いくら待っても山が答えをくれるわけもなく、ひとつ深呼吸をして中へ戻った。玄関の扉が閉まる音に安堵した。外界との扉。ほかの人も出入りするけれど、基本的には晧司さんと二人だけの空間。ここには、謎だけが詰まっているのではなく、巣穴のような安心感がある。 私は、夕李から身を守るためにここに匿われていた? まさか! もしそうだったなら、晧司さんたちは彼を知っているはずだし、ここに出入りさせるわけもない。 夕李は、ここに閉じ込められている私を救い出しにきた? それも違う気がする……。 一人で出せる答えではない。人に答えを任せるのも怖い。結局のところ、私は晧司さんのことも、夕李のことも、私自身のことさえも、データとしては何も知らないに等しい。彼らと重ねてきたあたたかな時間だけを信じてきた。 これからも、それでいいのだろうか。何かが少しずつほぐれてきている今、これまでのように心地よいものを信じているだけでは、前には進めない。かと言って、彼らがくれた優しさの根っこを疑っているわけでもない。 真実がどんな関係であろうと、晧司さんも夕李も、私
「どうしたの?」「もし……」 零れた言葉を、「ううん、何でもないの」などとごまかすことはできなかった。ここまで大切にしてくれる人を、自分の都合で忘れたままでいることは、過去の彼に対する裏切りに思えるから。過去の……どこかで時を共にしたことがある、私と夕李に対しての裏切り。その時間を自分の中に取り戻したいと願うことが、正しいのかどうか、わからないけど……。「もし、私が記憶を取り戻すためにあなたの力が必要になったら……力を貸してくれる?」「それは……」 彼は、断るかもしれない。思い出したいと願うことは、彼にとって、または誰かにとって、望ましくないのかもしれない。私が忘れたままの方がいいと考える人もいるかもしれない。 夢の中の私。「絶対に帰らない」と、きっぱりと言ったかぐや姫。 かぐや姫の故郷は、月。 夕李は私をアルテミスと呼ぶ。月の女神。私が彼をアポロンと呼び始めたから、だけではなく。以前も彼は私をそう呼んでいたのではないかしら。夢の話を彼は笑ってくれたけれど、私はひどく残酷なことをしてしまった……? かぐや姫は、月に帰らない。それが、「私は夕李が知っていた月の女神には戻らない」という意志表示なのだとしたら……? 意識の底で眠っている私自身が、自分に対して発した警告だとしたら? 風の中の木漏れ日のように、気持ちが揺れる。 晧司さんは、私と起居を共にするほど親しかった。 夕李とは、お互いを神話の名前で呼び合うほど、打ち解けていた。 これらが意味するものが何なのかを知りたい。以前の彼らとの関係を知って、自分の気持ちを見定めたい。「わかった。君がそう望むのなら」 夕李はゆっくりと言った。「ありがとう」「……ずるい言い方ですまない」「そんな風には取っていないわ」 私が望まないうちは、私が思い出したくないうちは、そっとしておこうと考えていたことがわかる。「さっき言いかけたことなんだけどね。……天霧さんは、こう言っていたよ。す……リンは薬味を様々乗せたお粥にハマっていたからね、と」「晧司さんが? そう……」 ぼんやりと返事をする私に、「明日ね」と笑顔を見せて、彼は今度こそ帰っていった。
彼は小さく笑って、脇に置いてあった段ボール箱を持ち上げた。「僕に強がっても駄目だよ。詳しくは聞かないから、無理に元気な振りもしないこと。いいね?」 太陽の中に見え隠れする影。謎めいた明るさ。閉じ込められた山の中で、夏中、私を楽しませてくれた。その時間は、彼を傷つけてしまったことで終わりを告げたのではなく、なおもこんなに優しく続いている。「ありがとう」 彼がくれた言葉に、しっかりと目を見て応えた。 切れていはいない。私たちの間にある糸は、何色なのかはわからないけど確かにつながっている。ならば私は、逃げずにこの縁と向き合おう。それもまた、記憶の扉に通じているのかもしれないから。「重
天霧鈴、二十七歳。十二月二十一日で、二十八歳を迎える。 今、わかっていることはそれだけ。職業も、元の住まいも、晧司さん以外の身内の存在も、一切知らされていない。先入観なく自分で思い出せるのならその方がよいから、と言われている。 あの日、お医者様に呼ばれた晧司さんは、「すぐ戻るよ」と私の手を握った。彼の体温だけが、この世で唯一、確かなものに感じられた。ほかに私を知っているという人が現れる様子もなく、看護師さんが何度か出入りした。自分が点滴だけで生かされてきたこと。それは、かなり長い期間であること。少しずつ状況がわかってきた。 病室は特別室で、晧司さんは親族用に仕切られた小部屋で寝泊
『大きなリビング』からテラスへと出られる窓は、開け放たれていた。半分だけ屋根がある広いテラスには、朝食の支度が整っている。晧司さんは、柔らかな椅子に私をそっと下ろした。彼は、向かい側ではなく私の右隣。 七月上旬の光は強いけれど、適度に日陰ができる造りなのであまり気にならない。水面を渡るそよ風は涼気を含んでいる。 「気持ちいい……」 ほぅ、と息をついて、コーヒーのポットに手を伸ばした。晧司さんのカップを引き寄せ、ゆっくり注ぐ。彼は何か言いかけたけれど、黙って待ってくれた。ん……重いけど、大丈夫。ポットを置くと「ありがとう」と温かな声。彼はお返しにと、私にカフェオレを作ってくれた
「リン、食事の支度ができたよ」 低く、穏やかな声が私を呼ぶ。「はい、今行きます」「こちらへ運ぼうか?」 戸口から姿を現したのは、従兄の天霧晧司さん。今日も優しい笑顔。「いえ、大丈夫です。今朝はとても気分がいいので」 本心からそう言ったのに、彼は心配そう。部屋の中へ静かに入ってきて、身支度を済ませた私を眩しげに見た。「今日は本当に調子がいいんです。洗顔も着替えも、途中で休むことなく済ませることができたんですよ」 クローゼットから、服を選ぶ余裕もあった。薄い緑色のサマードレス。「それはよかった。しかし、一度に動き過ぎてはいけないよ」「晧司さん、本当に過保護ですね。もうじき、あ







